2019年4月10日水曜日

4月9日 今日は何の日?-勇者の日ー

















どうもkazubongです。

もうすぐ日本はゴールデンウイークですね。

今年は天皇の代替わりという大イベントがあるということで、国中が祝賀ムードになるのでしょう。

フィリピンにも祝日、政府が定めた休日というのがあります。

毎年秋になると大統領府から次の年の休日、祝日の発表がなされますが、今年は正月なども含めて19日。日本は22日かな?なんか、年がら年中休んでいるような感じのフィリピンなんで、意外と少ないですね w

今日の記事ではそのうちの一つ、「勇者の日」を紹介します。

普段はニュースの解説をおもにやっているこのブログですが、今日は少し切り口を変えて、フィリピンの歴史にも切り込んだ、社会派の記事になります w

普段のkazubongとは違う、ちょっとシリアスな側面を知ってもらえたらうれしいです。

なんと5000字という長文になってしまいました。読んでいただければ嬉しいです。



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「勇者の日」 とは


 2009年、当時のアロヨ大統領政権時に制定された比較的新しい国民の休日が「勇者の日」です。英語でThe Day of Valor、タガログ語ではAraw ng Kagitinganといいます。
 
 日本語で勇者と聞くと、ファミコン世代の僕にはドラクエの音楽が頭の中で流れてしまいますが、どういう意味なのでしょうか?

 
 勇者の日、それは



第二次世界大戦の犠牲者を悼む日


 実際、僕の住むバランガイでもこれといった動きはなく、意味を調べるまで実は我々日本人にも深いつながりのある日であることを知りませんでした。
 
 この勇者の日の背景には「バターン死の行進」という歴史上の出来事が背景となっています。
 
 今から77年前の1942年4月9日、フィリピンに侵攻した当時の日本軍はバターン半島を占領しました。その際のアメリカ・フィリピン軍の捕虜は約7万6000名にも達しました。当時、物資輸送やアメリカ軍の破壊などによりトラックが不足しており、日本軍はその捕虜たちを運ぶすべがありませんでした。
 
 そこで収容所までの約120キロのうち約半分をトラックで輸送し、あとの半分は捕虜に徒歩で向かわせることになりました。その行軍に、マラリアや栄養失調などによりたくさんの犠牲者を出したことから、この行軍のことを「バターン死の行進」と呼ぶようになりました。バターンとは州の名前です。




バターン死の行進



 上記の地図にある実線のパンパンガ州サンフェルナンド―バターン州マリべレス間(約88キロ)が徒歩で移動した部分です。この距離を3日間かけて、日本軍は捕虜を歩かせ、約7千人から1万人がマラリアや飢え、疲労、その他殴打、処刑などで亡くなったとされています。

 戦時中の出来事とは言え、想像しただけで悲しい出来事ですよね。

 大量の死者を出したことから死の行進(The Bataan Death March)とのちに呼ばれるようになりました。

 戦後、このバターン死の行進などの戦争被害を心に刻み、忘れないために、死者を悼む記念式典が行われてきましたが、現在では、戦時における同志たちの英雄的な行為を記念する日と範囲を拡大して、覚える日になりました。

 ゆえに、国を挙げての反戦活動や、反日キャンペーンにはならないで今日まできています。ここが重要なポイントですね。先に日本軍のフィリピンにおける戦いを概略して、最後にこのポイントについて、考察します。

日本軍のフィリピンにおける戦い







 
















 日本軍のフィリピンにおける戦いは、じっくり書くと本が一冊書けてしまうので、ざっくりと説明すると、スタートは真珠湾の奇襲とまったく同じ1941年12月8日です。我々は歴史をポイントポイントで教えられるので、何十万という兵士が陸海空の戦力を使って同時に動いていたという俯瞰の絵を忘れがちです。

 12月8日、真珠湾の奇襲に成功して有名な「トラトラトラ」の打電の下、アメリカへの宣戦布告となった当日、ここフィリピンでも大規模な空爆が行われ、数日のうちに米航空戦力のほとんどを壊滅しました。

 日本軍は最初の航空爆撃作戦に勝利した後、準備していた第14軍がルソン島の各地に上陸をして、快進撃を見せます。

 当時の米比軍の総司令官は有名なダグラス・マッカーサー(当時少将待遇)。破竹の勢いの日本軍に危機を感じたマッカーサーは拠点となるマニラを放棄して、バターン半島とコレヒドール島に立てこもる決断をして、12月23日クリスマス前に司令部の撤退をします。

 その後、日本軍はさらなる進撃を続け、12月26日にマニラに無防備都市宣言を出し、翌1942年1月2日に、マニラは陥落します。

 当時の日本陸軍司令官は有名な、本間雅晴中将で、マニラ入場にあたり将校800名を集めて1時間に渡り「焼くな。犯すな。奪うな。違反したものは厳罰に処す」と訓示を行い、将校は各部隊に戻ると兵に軍司令官の訓示を伝えました。

 しかし、のちの報告で日本軍の幹部将校らによるマニラ大学の女子学生をレイプした事件などが発覚したことが分かっています。この辺りは、戦争の中での悲しい現実で忘れてはならないことです。

 一方で米比軍はマニラを捨ててバターン半島へ至る道路を死守し、周辺にあった全部隊の半島への撤退を成功させていました。

 日本軍もバターン半島へ向けて多数の米比軍が移動しつつあることは確認していましたが、敗残兵であるという認識の下、軽視をした結果、一度日本軍は米比軍に包囲されて一大隊が全滅させられてしまいます。その後も日本軍は米比軍の執拗な攻撃にあい、本間中将は一度、戦線を下げざるを得ない決断をします。

 その後、体勢を立て直した日本軍は再度バターン半島への攻撃を仕掛け、爆撃機の助けを借りながら進撃をして、ついに4月9日になって、バターン半島総司令官のエドワード・キング少将が降伏を申し入れて、4か月にわたった地上戦が終焉しました。当時の捕虜が7万人以上、この捕虜たちが4月10日以後に徒歩で移動させられたことで起きた事件が「バターン死の行進」となります。




















フィリピン人の戦争記憶と日本人への思い


 フィリピン人が第二次世界大戦と日本人をどのように見るかに関しては、アメリカとの歴史的つながりが深く関わっていると思います。

 1898年に、スペインから2千万ドルで購入したことに始まるアメリカのフィリピン統治は、第二次世界大戦の始まりと同時に、日本がフィリピンに侵攻した際(まさに、バターン陥落の日)に、一旦途切れますが、1945年の日本の敗戦に伴って再び復帰します。フィリピンが独立を果たすのは、翌年の1946年です。この辺りは独立記念日の時に詳しく書きたいと思っています。

 フィリピンとアメリカの関係というのは「偉大なるアメリカによるフィリピンの解放」という構図で描かれますが、現実問題としては日本が統治する1942年以前に自分たちを占領していた40年間はなんだったのか、ということに対して不快感を持っているフィリピン人は実は意外と多いのです。

 フィリピンは最初16世紀にスペインに、そして次にアメリカに、短い期間には日本に、そして戦後「独立」という名のもとに再びアメリカに、と自分たちのアイデンティティをどこに置くかが非常に難しい国の成り立ちをしています。

 ですから、今回取り上げている「英雄の日」というのも、単純にバターン死の行進で亡くなった捕虜たちの死を悼むということではなく、この国の独立のために血を流し戦った人々を覚えようという人して制定されたところに、フィリピンならではのメッセージが込められていると思います。

 フィリピンという国が、一つの国民国家として形成される以前からスペインやアメリカに翻弄されるようにして歴史の中を生きて、今もなお「フィリピン人」としてのプライドとアイデンティティの置き場を模索する一つの取り組みであると僕は結論付けました。

 もちろん多くの一般のフィリピン人にとってはこの日がそのような特別な日であるということは、制定から10年という短さではまだまだ定着していないようで、何人かに聞いてみても「考えたこともなかった」という答えが大半でした。


















日本フィリピンの友好のために


 kazubongは実はフィリピンに来た理由があります。

 今から25年前に大学で平和学(irenology)を学び、その後2000年からアメリカの西海岸で平和学の研修を受けながら、そのアプリケーションとして都市貧困・農村貧困の克服を目指して2006年にマニラに来たのが最初です。トンド、パヤタス、モンタルバンなどの所謂ごみ捨て場を拠点にしながら、グローバルな平和と貧困の課題を、ローカルな視点で取り組む働きをしてきました。

 今はその活動に直接参与してはいませんが、いつでも自分の活動の根底にはこの平和学(irenology)の実践というものがあります。この平和学とは何かということについては、それ自体がとても面白いコンテンツですので、いずれまた別の機会に取り上げて書きたいと思っています。

 僕はアジアの国を旅行した中でフィリピン人の多くが所謂「反日感情」というものを持っていない、あるいは多くの場合あらわにしないということをいつも疑問に思ってきました。

 なぜだろうと。

 彼らは日本軍の激戦があったこと、悲しい事件が沢山あったことを話しますが、「それはお前らがやったことだ」とは不思議に矛先が向いてこないのです。

 フィリピン人にもしも戦争について聞くならば、多くが「それは過去のことだ」というでしょう。

 しかし、それは私たちが過去のことだとして「忘れてしまってもよい」という意味でとらえるのは違うと思います。

 フィリピンには上記のように、彼らの国、国民としてのアイデンティティー形成にあたって、非常に悩ましい歴史がまずあって、そこに日本統治という期間があるのだという事実に目を向けるときに、語るべきは彼らではなく、我々なのではないかという思いに至るのです。

 もちろん、どこかの国でいわれるように、土下座しろだの、一生謝罪しろだのという、そういうことではないと思いますし、フィリピン人もそのようなことは求めていないと思います。
 
 そうではなく、我々の祖父たちが戦争中にフィリピンでなしたことをしっかりと記憶し、学び、また若い世代に伝え続け、フィリピンとの友好ということを考えたときに、正しい歴史認識と知識を持ったうえで、彼らに接して、互いに尊敬できる関係を作って行きたいと思うのです。

 もしも幸運なことに、かつてその時代を生きた人から、どのような痛みを経験したか、恐怖を感じたか、ということが聞けたならば、しっかりと傾聴し、共感し、「そのような事実は忘れてはならないし、無自覚で関わることはできません」と、しっかりと言えるものでありたい、と常々思っています。

 フィリピンの近現代史は、実は日本人と深いつながりのある、「私たちの歴史でもある」ということを、おりにふれて僕は伝えていきたい、と思っています。






フィリピンの祝日と休日



 最後に、フィリピンの祝日と休日を紹介します。
 
 パッと見、その意味と成り立ちが分からない祝日が多いかと思いますので、今後ブログの記事の中で今回のようにピックアップして随時紹介していきたいと思います。


2019年フィリピンの祝日と休日一覧


定休日(Regular Holiday)1月1日 正月
4月9日 勇者の日(The Day of Valor)
4月18日 洗足木曜日(Maundy Thursday)
4月19日 受難日(Good Friday)
5月1日 労働者の日(Labor Day)
6月12日 独立記念日(Independence Day)
8月26日 英雄の日(National Heroes’ day)
11月30日 ボニファシオ・デー (Bonifacio Day)
12月25日 クリスマス (Christmas )
12月30日 リザール・デー (Rizal Day)
特別非労働日(Non-Working Day)2月5日 旧正月(Chinese New Year)
2月25日 EDSA革命記念日(EDSA People Power Revolution Anniversary)
4月20日 ブラックサタデー(Black Saturday)
8月21日 ニノイ・アキノ・デー
11月1日 諸聖人の日(All Saints’ Day)
12月8日 聖母マリアの日(Feast of The Immaculate Conception of Mary)
12月31日 大晦日
追加特別休日11月2日 死者の日(All souls’ Day)
12月24日 クリスマス・イブ(Christmas Eve)


長文の記事を読んでいただきありがとうございました。



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それではまた。










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